2016年4月12日 (火)

山名赤松合戦異聞

赤松政則は嘉吉に失われた領国を回復した赤松中興の祖である。
応仁・文明の乱をはじめ、多くの戦を経験した武人である一方、猿楽、和歌、蹴鞠、絵画などの諸芸にも通じた文化人でもあり、特に刀剣には強い興味を示し、自ら刀匠として作刀しているほどである。しかし政則を語るにはさらにもう一つ言葉が必要になってくる。
彼は美形であったのだ。

「赤松次郎法師、幼少より其心勇敢にして、其気大胆なり。剰へ器量礼容世人にすぐれ、寛正、文正の比、世に隠れなき美少年なり…」(『赤松盛衰記』)

この次郎法師とは政則のこと。
六道珍皇寺にある政則の肖像画を見ると、デフォルメされた部分はあるが細面に切れ長の目、二重、筋の通った鼻と美形であったという政則を想像させる片鱗がある。
寛正六年十二月二十六日(1465)十歳の次郎法師が元服し義政から偏諱を与えられて政則と称するようになった時の様子が当時の日記に記録されている。

「赤松次郎元服出仕献御太刀御馬三十足。賜名乗仍又献太刀也。雖云少年、其威儀粛然、其起居進退可観。仍殿中人皆互相慶賀、愚又似有寵光也」 (『蔭凉軒日録』寛正六年十二月二十六日条)

まだ幼い政則は居並ぶ歴々の前でも動じることも無く、堂々とした立ち振る舞いであったと季瓊真蘂は記している。
今回の話はその多くを『蔭凉軒日録』に頼っており、特に断りの無い限り史料の出典は『蔭凉軒日録』とする。関係している記事は季瓊真蘂と亀泉集証が担当しているが、両者とも赤松氏に縁を持つ出自であることから、赤松氏に対しては特に好意的である点にも注意しなければならない。対して山名氏にはいささか冷淡な記述が目立つ。

政則は山名氏を宿敵として山名宗全、政豊等と激しい戦いを繰り広げている。今回はそんな政則と山名氏との違う形での戦いを取り上げてみたい。

宗全の跡を継いだ山名政豊。京都での戦いが終結し、領国但馬に戻った政豊はその後も播磨に攻め込むなど政則との戦いを続けている。しかし政豊の播磨攻めは政則に敗れて失敗に終わる。但馬に戻った政豊の求心力は低下し、家臣等は政豊に代わってその息俊豊を擁立しようとして、父子の泥沼の戦いが繰り広げられていく。
政豊には四男二女の子女がいた。長男の常豊は幼くして義尚に対面するなど後継を期待されていたが二十歳で早世している。俊豊は政豊との確執により山名惣領家を継ぐことは無かった。三男の致豊が政豊の跡を継いだが、家臣を抑えることが出来ずに若くして弟の誠豊に当主の座を譲り隠居することになる。『村岡山名家譜』によると女子の一人は一色上野介義嗣の室となったという。

政豊以降の山名の歴史を簡単に説明したが、話は少し遡り延徳三年(1491)将軍足利義材が近江の六角高頼征伐の軍を起こした頃に戻る。
義材の六角征伐の呼びかけにより諸大名らが次々と上洛していく中、山名政豊はその息、俊豊を名代として出陣させている。播磨での大敗の傷が癒えたかどうかといった時分である。政豊は先の義尚の近江出陣にも俊豊を名代として派遣している。
八月十八日に上洛した俊豊は梅津長福寺に着いた。その兵は二千人、騎馬六十人であった。二十三日に出仕した俊豊。

「山名又次郎殿出仕、伴衆垣屋新五郎、太田垣、八木、田結庄、垣屋駿河守、村上。六騎、徒衆七十人許、或云百人許、因幡守護親子同参」 (二十三日条)

俊豊には垣屋両家、太田垣、八木、田結庄といわゆる山名四天王と呼ばれた家臣等と因幡守護山名豊時、豊重等が付き添っていた他ことが判る。
ここで亀泉集証のケチが入る。

「今日亦武衛御出仕。伴織田五郎、島田、飯尾、山下、織田與十郎、五騎有之、武衛衆壮麗勝於山名衆」 (二十三日条)

武衛とは斯波義寛のこと。同日出仕した斯波一行を見た亀泉集証は、先に見た俊豊達と比べて壮麗さで勝っていたとの評。厳しい。
しかし辛口評価は更に続く。

義材の出陣に加わった諸大名には当然、赤松政則もいる。政則の軍は八月二十七日の義材の京都出立の時に、まだ山崎にあり遅れていた。翌二十八日になって政則軍は上洛した。

「赤松公入洛洛人挙群見之」 (二十八日条)
政則の上洛に際し都の人々がこぞってその行列を見物に出たのだという。都の人々は前日の将軍一行も見物しているが、京都を灰燼に帰した先の大乱から然程年も立たぬ内にもう軍勢を見て楽しむまでになっている。本当に逞しい。都に入った政則は亀泉集証と面会している。

「諸家兵優劣評之」 (二十八日条)
亀泉集証は都を出立する諸大名等の行列を見てその優劣の評価をしており、山名俊豊の軍勢をみた感想でこう記している。

「山名又次郎公諸兵皆不壮麗騎従之衆悉少弱者也、鹽冶周防守一人老兵也」(二十八日条)

俊豊の兵はみすぼらしく、騎上の武者も塩谷周防以外は若輩者ばかりであったというのだ。
この件については山名宗全与党であった六角高頼征伐に乗り気でない山名氏が形だけ合わせるために名代として若者ばかりを送り込んだという説もある。
先の播磨攻めの失敗で、政豊に従った国人達の受けた損害は大きく、特に垣屋氏は主だった一族を失っており、政豊自身も更迭問題があったばかりと、国内から目が離せなかったこともその要因にあると思われる。

「同族伯州太守六郎公、騎兵者十三員、標牌五百員、大壮麗也云々」 (二十八日条)

山名一族である伯耆守護山名尚之の軍勢は大変壮麗であったと評価されている。どうやら亀泉集証等は軍勢を実力や武装ではなく、その衣装、飾り具合など見た目の華やかさなどにより評価をしていたようだ。
都の人々も寺衆等も義材の出陣にパレードを見るようにお祭りとして楽しんでいたのだ。

いよいよ赤松政則の行である。
「凡一千二百四十五荷、此内馬駄多々有之、赤松公来、識與不識皆視其面骨、其服威雄、従後者騎兵五十五員。歩卒二千人許乎。馬上者皆不持弓矢、不被甲冑、只帯大刀耳。不亦一快乎」(二十八日条)
赤松は約三千人の兵による行列であった、政則はその行列の中ほどに居たことになる。注目を集めた政則の姿は、威風堂々たるものであった。赤松の騎乗の者達は皆武装をしていなかったという。

諸将の近江在陣も二ヵ月も経ったある日、亀泉集証は初めて山名俊豊を目にすることとなった。これまでは遠目に見るだけでその容貌などは判らないままであったのだ。

俊豊を見た感想は如何に。





「於湖濱山名又次郎殿出仕見之予始其面太醜面也…」 (十一月二十四日条)

この頃の俊豊は二十歳そこそこの年齢であったと思われるが、いくら赤松贔屓、山名に冷淡な見方とはいえ、これは余りな言いよう。酷い…
思えば宗全も赤ら顔の入道と呼ばれている。美醜では赤松氏に分があるのか。
赤松家にもその容貌を鬼瓦と評された洞松院がいるが…


文明十八年正月(1486)の記事。ここに注目すべき記述がある。

「昨日興希文来曰、山名金吾息宗傳。字芳心。有試筆詩。彩霞春加一様花。和之可也。蓋南禅栖眞院美少年也。」 (正月十四日条)

この山名金吾とは政豊のこと。南禅寺栖眞院は山名常熈開基の塔頭である。そこで修行をする十代半ばの若き宗傳芳心は政豊の息である。
その芳心は美少年と評されていた。
この芳心こそが俊豊の弟にあたる後の山名致豊である。
山名の起死回生の一手。
そしてこの致豊の子が山名祐豊、豊定である。豊定の子、致豊の孫にあたる山名豊国は『因幡民談記』に器量の世に優れた武将と評されている。その後山名を継いだ者達は美形の血筋であったといえるかも知れない。
山名氏の肖像画は常熈と豊国しか確認出来ないのが残念だ。

参考『蔭凉軒日録 巻二』、『蔭凉軒日録 巻四』、『但馬の中世史』、『赤松盛衰記-研究と資料-』、『禅文化研究所紀要 26号』、『山名豊国』、『山崎城史料調査報告書』他

2016年2月25日 (木)

大将は後方に。

武士。つわもの、もののふ、さむらいといった言葉で表現されることもある。
「つわもの」や「もの」は武器の意味でもあり、これを扱っていた者達に対してもそう呼ばれるようになったのだという。今回はそんな武士の大事な仕事である合戦の話。

合戦は兵と武器でもって相手の戦力を削ぎ、戦意を失わせて勝利を得る。合戦で勝利する要素は兵の多寡、立地、気象条件、運用と多岐にわたるが、もっとも効率的に勝利を得る方法が敵の大将を討つことであった。将棋でもチェスでも王を詰めれば勝ち。今川義元や陶晴賢等がその実例である。強大な勢力を誇った織田軍団ですら信長を失った後は機能不全に陥り、そのお陰で追い詰められていた各地の戦国大名達もその命運を保っている。

合戦においては大将を守る事が最重要であった為、大将は城や陣の奥深い場所で、近習達に囲まれてその身の安全を確保していた。弓鉄砲礫が飛び交い、槍で突かれ、武装した兵や馬に衝かれる最前線からは一定の距離、防御施設による隔たりがあった。

朝倉宗滴は「合戦ノ時武者奉行タル仁諸勢ノ跡ニ居タルハ悪候、先立タルカ本ニテ候」と合戦における武者奉行の心構えを説いている。 (『朝倉宗滴話記』)
宗滴曰く、武者奉行が最前線にいなければ、兵達が手柄を見せる為に大将のいる後方まで下がってしまい手薄になるので良くない。敵に手薄になった隙をつかれると負けてしまう。更にここで大将が退却せずに、踏ん張れば討ち死する危険すらある。
合戦の際、大将が実際の戦闘が行われている場所から距離を置いていたことが判る。戦場の体験から事例や心構えを語る宗滴の話はリアリティがあり面白い。

地侍や国人クラスの武将達は大規模な兵を持つことが出来ず、あるいは大名の指揮下にあったので最前線で自身が戦う事も多く、負傷、討ち死することも多かったが、守護、戦国大名ともなると最前線に出るのも稀で、負け戦であろうとも余程のことがない限り討ち死などはしなかった。討ち死した大名といえば今川義元、龍造寺隆信、相良義陽、斎藤道三あたりが思い浮かぶが、大勢は出てこない…

しかし大名自身が自らを危険に晒す戦闘行為をしたという記録がある。
有名なところでは上杉謙信。
永禄四年(1561)に武田信玄との間で行われた川中島合戦に関しての近衛前久の謙信への書状。

「今度於信州表、対晴信遂一戦、被得大利、八千余被討捕候事、珎重之大慶候、雖不珎義候、自身被及太刀打段、無比類次第、天下之名誉候…」。(『歴代古案』)

謙信が自ら太刀打ちに及んだことが記されており、
信玄との一騎打ちの根拠としても出される史料。どのように前久に伝わったのかはわからないが、信玄との合戦における勝利の報とあわせて謙信の太刀打が絶賛されている。謙信にとっては普通の事だというのが恐ろしい。

明応二年(1493)二月、足利義材は畠山義豊を討つ為に河内に出陣し、畠山政長、斯波、武田、一色、赤松といった諸大名がこれに従った。この戦の最中の四月に明応の政変が起き、細川政元についた赤松政則は逆に義材、政長と対することとなった。翌月の閏四月二十二日に行われた堺合戦で政則は畠山政長方の軍勢と戦っている。

「昨日廿二卯刻、根来衆為始紀河両国之勢一万計乎堺隣郷向村幷近辺之山々陣取候、左京兆自身打出、数刻及合戦候、同申刻敵悉切散、大得勝利候…」 (『蔭凉軒日録』閏四月二十四日条「上月則武書状」)

政則が白兵戦を挑んだとまでは言い切れないが「自身打出」という表現をしてまで、この合戦の模様を記している点が気になる。他の大名にはこのような表現がされていないところを見ると、政則のとった行動は目立ったものであったのかも知れない。政則はこの三月に政元の姉(又は妹)の洞松院を娶っている。更にこの頃、政元に所領安堵を認めてもらうよう家臣を通して申し出ている。

政則はこの合戦で武功をあげて政元の信頼を得る為にも、自身を危険に晒してまで、その姿勢を見せなければならなかったのだ。

政則は刀匠として自身が作刀した刀剣を家臣等にも与えていることが知られているが、斯波氏に仕えた尾張下四郡守護代織田敏定にも自作の刀剣を贈っている。
その銘には

表「為織田大和守藤原敏定

  兵部少輔源朝臣政則作」

裏「長享三年八月十六日」

とある。
赤松政則と織田敏定は朝倉氏を巡る交渉や近江、河内攻めなどを通じて誼を通じており、特に赤松被官である浦上則宗と敏定は頻繁に接触している。そうした関係から刀を贈られたと思われるが、この敏定の肖像画は細身で上品に描かれている政則とは対照的に、ふっくらとした野性的な雰囲気すらある武人として描かれている。印象的なのが右目を瞑った姿であること。

「某歳、軍于州之清州、為賊所射、一目失之、不抜其箭、以攻以戦、賊乞降而退」(『補庵京華外集上』「織田敏定寿像讃」)

この賛は文明十年に織田敏広が清州に拠る敏定を攻めた際のことが書かれているとされる。合戦の最中、敏広勢から射られた矢が敏定の目に刺さったが、敏定は抜かずにそのまま戦い続けたのだという。
なんとも壮絶な守護代クラスの最前線の戦いである。

赤松政則と宿敵関係にあった山名宗全。その父である時熈も明徳の乱の際に勇猛果敢に戦っている。

『明徳記』の京都市中、赤松勢との戦闘を終えた氏清勢が休息をしているところに僅かな馬廻りで突撃をかける時熈の場面。

「時熈よき所よと見てんげれば、二条の大路へ打出て、奥州の兵大勢にて控えたる真中へ懸入て、一文字に裏へわてとをり、取て返して一揉々て、又十文字にかけ破て、二条へさとかけいでたれば、五十三騎の兵も主従九騎に成にけり」

氏清勢に突撃を繰り返した時熈は従う兵を次々と失い、自身も追い込まれ絶体絶命の危機に陥ったが、垣屋と滑良が救援に入り、彼らの討ち死と引き換えに虎口の死を逃れることが出来たという。
軍記物ではあるが『明徳記』は乱の翌年または翌々年に書かれたとされる史料でもある。細かい描写は脚色だろうが、時熈と氏清ともに果ててもおかしくない激闘であった話が伝わったからこそ、書かれた場面であると思う。山名氏も一族滅亡の瀬戸際を経験している。この内野合戦で守護大名氏清は討ち死しているが、赤松則祐の子である満則、持則も氏清の軍勢と戦って討ち死している。
重責を担っている大将は迂闊に身を危険に晒してはならない。

2016年2月 7日 (日)

猫の武将

普段は食事の時間以外、ツンと知らん顔をしている我が家の愛猫も、冬の寒さに耐えきれずに人の膝の上に乗りたがる。毛を膨らませて、聞き耳を立てながら丸くなっている姿は何とも可愛らしい。ついそのまま足が痛くなるまで読書などをして、一緒に過ごしたりする。

猫が武将になったゲームが人気らしい。戦国時代の人々も猫とともに生活をしていたようで、武将と猫の話も割と多い。
井伊直孝と白猫、鍋島化け猫騒動、甲斐宗運と猫と茶臼剣、最上義光の膳を食べた猫、秀吉の愛猫など。
小田氏治にいたっては肖像画に猫まで一緒に描かれている。猫好きここに極まれり。絵師に描かせた際に一緒にいたのか…
猫は家に棲むという。捨てられても、追い出されても、また家に戻ってきたという話もある。氏治の生涯も似たものがあるような気がする。

戦国時代あたりでは猫は繋がれて飼われるケースが多く、毛利輝元や板倉勝重らが猫を繋ぐことを禁止する触れを出している。
猫は愛玩動物として飼われただけでなく、古代に猫が輸入された理由が鼠害対策であったといわれるように、鼠狩の益獣としても活躍してきた。勝重の禁制により鼠害も減ったのだという。
我が家にいた猫もよく鼠や雀、蝉などを捕まえてきていたのを思い出した。

猫が愛玩や害獣対策以外に利用された例もある。

「ナラ中ネコ、ニワ鳥安土ヨリ取ニ来トテ、僧坊中ヘ方々隠了、タカノエノ用云々」
(『多門院日記』天正五年五月七日条)

信長が奈良中の猫や鶏を徴集しに来るので、人々が取られまいと猫達を僧坊にに隠したというのだ。集める理由は鷹の餌にする為だという。
猫を餌にするなどとやはり信長は天魔だ。猫を護ろうとした奈良の人達もほほえましい。

の餌にされたのは猫や鶏だけではない。

「山名一党多好田猟、踏損田畠、農民又愁傷之、捕人々之犬、終日射犬追物、或殺犬、人食之、鷹養之汚穢不浄充満者歟、更難叶神慮哉、管領被官人堅加制止、不及鷹飼云々、於食犬者、被官人等元来興盛歟、主人不知之謂歟」
(『建内記』嘉吉三年五月二十三日条)

山名の一党が農民達の田畑を荒らし、犬を掠奪して犬追物や鷹の餌にしたという。更に犬は精力が付く為、人も犬を食べたとある。
山名氏の横暴を示す際にも使われる史料でもあるが、掠奪はともかく食犬は珍しくない習慣だった。当時の遺跡から出土した犬の骨には食用にされたとみられる解体痕が見つかった例もある。ルイス・フロイスや貞成親王なども薬として犬肉を食べるということを書いている他、食犬は現代に至るまでその例は多い。

ちなみに山名氏の家伝書『山名犬追物記』には「ノガレ犬」という作法があり、犬追物に使う最初の一匹はわざと矢を外して逃がすのだという。ささやかな情けだが。

最後に。
我が家には「猫神神社守護」と書かれたお札がある。鹿児島の仙厳園にある猫神神社のもので、御祭神は猫神。


神社の由来には、島津義弘が秀吉の朝鮮出兵の際に七匹の猫を連れて行ったとある。猫の瞳孔の開き具合で時を知る為だったという。
猫時計、なんと素敵な。
残念ながら七匹の猫のうち五匹は戦死してしまったが、二匹が無事生還して、時の神様として祀られることとなった。島津軍は猫まで勇ましい。

生還したニ匹の猫の名はヤスとミケ。まさに猫の武将である。

2016年1月28日 (木)

化身の武将

第六天魔王 織田信長。

『日本耶蘇会年報』にあるルイス・フロイスの書簡によると、天正元年(1573)武田信玄への書状で信長が自身の事をそう記したのだという。語感と一般的な信長像、いわゆる革新的な、物好き、奇抜な、残酷なといったイメージとあいまって、よく見かける表現である。

第六天魔王とは仏教用語であり、諸説あるが欲界の天の高位にあたる第六番目の天を指し、仏道修行の妨げをする存在、いわゆる仏敵、天魔だという。日本においては神道神話にも登場する。

天魔の所業という表現は中世でもよく使われており、寺院の破壊や狼藉、放火や殺人といった悪行や、火災などの災害に対して使用されている。比喩として、あるいはその存在を信じてか。戦国武将では上杉謙信が佐竹義重とその家中が謙信に対して疑心を抱いている件について「誠々天魔之執行歟」と表現している例がある。(「上杉文書」)

信長は多くの戦をしており、戦を仕掛ける時には相手に非があり、自身こそが正義であるという主張をしているケースが見られるが、そんな信長が実際に天魔を名乗ったのか疑問に思う。

上杉謙信といえば我が毘沙門天の化身と語ったという逸話が有名。出典は『名将言行録』であり実際のところは不明であるが、深く毘沙門天を信奉した謙信のイメージに合った素敵な話で気に入っている。
う一人毘沙門天の化身と呼ばれた武将がいる。

その武将は山名宗全。
応仁の乱西軍大将、山名氏最盛期の人物である。

山名氏の系図などには「面赤故世人赤入道云」と書かれており、『応仁記』でも赤入道の記述がみられる。宗全が赤ら顔であったという話は巷に流布されていたと思われる。
そんな宗全の事を歌った漢詩がある。

山名金吾鞍馬毘沙門化身

鞍馬多門赤面顔
利生接物人間現
開方便門真實相
業属修羅名属山

山名宗全は鞍馬の毘沙門天の化身である。
鞍馬の多聞天の容貌は赤面であり、その多門天が利益をもたらす為に人間に現れた。
方便の門を開いて真実のあり方を示す。
その業は修羅の道を歩み、その名は山に属す、即ち山名である。

宗全と同時代に生きた一休宗純の『狂雲集』に書かれている歌。この歌を宗全の好評価とみるか、風刺とみるか。
一休は宗全より十歳年上、一休に宗全との面識があったのか逸話以外では覚えが無いが、臨済禅を通しての接点があった可能性は高い。
宗全は一休から毘沙門天と称されているが、自身も十二天を崇めており、宗全が鷲原寺に納めたという十二天像図には宗全の署名と花押があり、そこに毘沙門天の姿もある。毘沙門天とは無縁という訳では無かった。

やがて応仁・文明の乱となり、一休はその有様を、修羅が血気盛んに怒声を振るわせ戦い、負けた時は頭脳が裂けその魂は永く彷徨うであろう。戦死した兵を弔うというような凄まじい表現をしている。
焼け野原と化した京を見て一休は「咸陽一火眼前原」と歌った。
かつて宗全を持ち上げた一休は何を思ったのであろうか。
『狂雲集』には他にも宗全についての漢詩が書かれている。

金吾除夜死山名
従此黄泉幾路程
太平天子東西穏
九五青雲無客星

乱の最中、宗全が死んだ。黄泉路は幾ばくあるか。

東西の戦も止み、天子の世は穏やかになったが、人物はいなくなった。という意であろうか。

西軍の山名宗全と対した東軍大将の細川勝元。
宗全が亡くなって程なく勝元も死去するが、
蓮如の法語、言行を伝える『空善記』によると、勝元は臨終の際に家臣の秋庭(元明)を呼んで「われ死すとも、小法師があり。故は愛宕にていのりもうけたる子なり…」「小法師があるほどに家はくるしかるまじきぞ」と言い残したという。
小法師とは九朗政元、半将軍と呼ばれた細川政元のことである。

『空善記』では政元を聖徳太子の化身であるという。
「細川大信殿をばみな人申候。聖徳太子の化身と申す。そのゆへは観音とやはた八幡との申子にてあり。」

臨終の際に勝元が言い残した言葉には、勝元夫人が愛宕詣でを続け、観音に祈り続けていたある夜、聖徳太子が夫人の枕元に現れて口に飛び込んだのだという。その後夫人は政元を身籠ったとある。

荒唐無稽であるが、蓮如とその外護者である政元との親密振りを物語る話。僧でありながら蓮如は政元を魚食で接待したという程。奇抜な話の多い政元は誕生の際でもその本領を発揮している。
蓮如・教団と政元の接近がその後の戦国時代での悲劇を生む一因であったのかも知れない。政元は本当に火種だ。

2016年1月 9日 (土)

石の戦

今年は雪が少ない。大人になった今でも冬になると、昔雪玉を投げて遊んだ雪合戦のことを思い出したりする。
そして、雪合戦とあわせて思い出すのが、当時、漫画か授業だったかで知った家康の石合戦。

今川家の人質であった竹千代が、五月五日に阿部川の河原で行われた石戦を従者と見物に出かけた際、勢の多い組と少ない組が戦うのだが、多い組は数を頼り油断し、少ない組は一生懸命に戦うので少ない組が勝つだろうと当てた話。
現代でも通じる教訓的な話で、『武徳大成記』など家康関連の史料に書かれている。

ここに書かれているような石戦は中世から近世にかけて、庶民の間で端午の節句の日などに行われていた。

石戦は印地打といい、端午の節句の場合は菖蒲打ともいう。
双方に分かれて石を投げ合う行事や争いであり、当然怪我をすることも多かった。

明応五年(1496)五月五日に京都で印地打が流行した時は、死人や手負いの者が大勢出たとあり、(『実隆公記』)
応安二年(1369)四月二十一日に行われた賀茂祭では、日暮れ頃、雑人達が一条大路で戦い始めて印地打となり、死者が四五人出たという。付近の状況は「通路流血之条」と表現されている。(『後愚昧記』)

祭りに際しては兵達が警護についたとある。いまでも祭りの日には警官と喧嘩騒ぎがつきものであるが、当時は増して物騒だったようだ。

印地打は石を投げあうだけなので費用などはかからないように思える。しかし史料を見ていると印地の為に家を差し押さえる話や、印地家代と称して金銭を支払わせた例も見られる。(「興福寺官符衆徒衆会引付」)
公の行事として行われた印地打は儀式、規模もそれなりのもので、伴い費用も発生するものであった。
踏み込んでいないので詳しくはわからないが、祭りの為に家を差し押さえるのは気の毒な気がする。

行事で行われた石戦でも多数の死傷者が出る。まして実際の戦で石を投げたとなるとその効果は絶大であった。
石はもっとも原始的で身近にある武器であり、古今東西に使用例が見られ、とりあげるとキリがないので中世あたりから少しみてみようと思う。

戦時における投石では武田軍の投石部隊が有名である。
元亀三年(1573)十二月、信玄が三方ヶ原で家康と戦った時のこと。

『信長公記』には
「武田信玄水役之者と名付、二、三百人真先にたて、彼等にはつぶてをうたせ候」
と先陣に投石兵を投入した記述がある。
推太鼓を打ちながら襲いかかってくる武田軍、これは恐ろしい。


そういえば印地打が描かれている絵などをみると、組の中に太鼓をもっている人の姿がみられる。
打音により人々はさらに高揚して、合戦はより激しくなっていく。これでは死傷者が出るのも当然である。

『太平記』では赤坂城に籠る楠木正成が、迫る幕府軍に対して大木や大石を落として防戦した記述がみられる。また島原の乱では原城に籠った宗徒達が、材木、火を付けたかや、鍋、石などを投げ落して抵抗したという記録がある。(「野尻松斎宛書状」)

城を守備する兵達が石を落として敵を防ぐという記述は多くの軍記物にあり、但馬でも竹田城や岩山城などで、大石を落として羽柴軍と戦う話がみられる。(『武功夜話』『但州一覧集』)
このあたりになると信頼度に難があるが、実際の山城でもこうした投石用とされる石が見られる事例が多くある。

備後一条山城、美作医王山城、因幡蛇山城、但馬岩井城、近江佐和山城、飛騨三枝城、越後片刈城をはじめ全国各地で見られ、飛礫が戦の常套手段であったことがわかる。
飛礫用の石は集石した状態で曲輪などから見つかっており、丸みを帯びた河原石である場合が多い。
岩井城では拳大から20㎝程度の角礫が飛礫として発掘されている。
大きいものは両手持ちでないと運搬出来そうにない程であり、投げるよりむしろ落として戦ったと考えた方が良いかも知れない。殺傷能力は推して知るべし。

当時の兵達が飛礫により負傷したことは史料にも見られる。

応仁元年(1468)九月、京都今出川であった合戦に関する史料「吉川元経自筆合戦太刀打注文」によると、元経(経基)配下の浅枝上野守、浅枝孫五朗、三宅図書助が飛礫で負傷したとあり、続く十月の鹿苑院口合戦でもまた浅枝上野守、浅枝孫五郎が飛礫により負傷している。 (「吉川文書」)

月で負傷する勇敢な浅枝一族、流石は鬼吉川と呼ばれる将の兵達である。

この史料にある「於鹿苑院口之櫓手負」の記述から、乱初年から戦用の櫓があったことがわかる。
おそらくこの櫓から落とされた石により、湯枝氏は負傷したのだと考えられる。当時の戦の様子を知る記録としても面白い。

天文十八年(1549)石見国安濃郡大田表の合戦で出された軍中状の史料である「吉川経冬軍忠状景写」には、経冬配下の町野掃部助が矢疵を右足に、左足には礫疵を受けたとある。郎従三人の内の一人も左肩に礫疵を受け、残る二人がそれぞれ弓矢で敵を仕留めたという。 (「石見吉川家文書」)

当時の戦が弓矢と礫が飛び交う戦場であったことをうかがい知ることが出来る史料。
それにしても掃部助は両足に怪我をする程の率先垂範振りで部下を率いていたのか。なんとも従い甲斐のある上官である。
どうして吉川家にはこうときめく人たちが多いのか。

この他、天文十一年(1542)の出雲赤穴城、永禄六年(1563)の白鹿城、熊野表の合戦などでも飛礫による負傷者が出た記録がある。

城を守る手段として投石が安易かつ有効であり、入手も容易であったという理由から多用されたと思われるが、攻城側が投石をしたという話もある。

元亀二年(1571)八月、山中鹿介が籠る伯耆の末石城を吉川元春が攻撃した。
八月十四日付の毛利輝元書状写に
「至伯州末石之城、元春其外取懸候、一両日中可為一途之由候間」とある。(『閥閲録』)
毛利の攻撃は凄まじく、寡兵の鹿介は支えきれずに城は僅か数日で落ちる。
二十日には「末石就落去之儀示給候」と元春が語っている。

この戦は『陰徳太平記』をはじめ幾つかの軍記に描かれており、『老翁物語』には

「先づ末石へ召懸られ候。
当日より城の廻り、柵を御結せ成され、其間各々罷り居り候。
城の土手たかく候て、此方よりの矢鉄炮しかじか役を仕らざるに付て、俄に西棲を三重仰せ付けられ、それより矢鉄炮の儀は申すに及ばず、礫を打籠め候」

と毛利軍が攻城櫓を置いて、櫓から弓矢鉄砲、礫で攻撃した記述がある。
僅か数日の攻城戦でこうした施設を置けたのか疑問ではあるが、城攻め側も投石を用い得たことがわかる。他の事例でも良いので裏付けが欲しいところ。

次は投石でも少し変化球を。

『園太暦』によると延文四年(1359)年八月。都で天狗が横行した時の話!!
冷泉室町辺では小童が天狗にさらわれる事件が起き、さらに
「又以飛礫打所々、武家権勢道誉法師宅打之、以外事云々」とある。

当時天狗達は都のあちらこちらで投石をしており、佐々木道誉宅にも打ちこまれたのだという。
梅津辺りでも天狗による投石があり、これに耐えられなくなった僧が引っ越しをしたと書かれている。京都は怖い。
天狗と石といえば天狗礫という怪異があるが…。

最後は石合戦の話に戻る。

応永二十七年(1420)七月十五日、相国寺で盆の施餓鬼供養があり、その際に喝食達の間で石合戦が行われた。
しかし、ここでとんでもない事故が発生したのである。

「相国寺施餓鬼之間、喝食数輩以飛礫打合、室町殿御烏帽子ニ飛礫打当、喝食悉被追出云々」 (『看聞日記』)

なんと、この様子を見物していた将軍足利義持の頭に石が当たったのだ。
とんでもないことだ。

幸いにも、喝食達は「出ていけ」と追い出されただけで済んだようだが、もう少し後の将軍だったら命は無かったかも知れない。
歴代足利将軍は波乱に満ちた生涯を送っているが、流石に石が頭に当たった将軍もいないと思う。

フォークでおとしてみた。

2015年10月25日 (日)

赤松義雅の晴れ舞台

今回は籤により選ばれた将軍として有名な、室町幕府六代将軍足利義教に関する話。

応永三十五年(1428)正月十八日足利義持死去。
この日、前夜に八幡宮で引かれた籤の結果が明かされ、義持の弟である青蓮院義円が時期将軍に選ばれた。後の足利義教である。

翌日から将軍になるべく元服の手続きが始まる。
元服の儀といえば数日程度をイメージするが、義教の場合は選ばれて後、実に二年半もの年月をかけて一連の儀式が執り行われている。

十歳で青蓮院門跡に入った義円はこの時三十五歳、異例の高齢での将軍選出である。
義円が将軍になる為には環俗、任官、元服と多くの行事をこなす必要があった。

応永三十五年三月十二日。還俗、従五位左馬頭叙任、名を義宣と改める。
四月十一日、判始、乗馬始。
四月十四日、御沙汰始。御的始。従四位昇進。
更に元服迄の間に正長改元、後花園天皇擁立が行われている。

こうして正長二年(1429)三月九日、元服が行われた。義宣三十六歳。

面白いのは元服に至っても、義宣が烏帽子懸を用いて烏帽子を固定させなければならなかったという話。法体であった時から髪が生え揃うまでの時間が足りなかったという。
義教の将軍就任については『普廣院殿御元服記』に詳しい。

義宣に冠を着ける儀は管領畠山満家の一門より行われた。

加冠、畠山持国。
理髪、畠山義慶。
打乱役、畠山持幸。
泔坯、畠山持永。

時刻は亥刻、午後十時。元服の日時は陰陽師の阿陪有富が選定した。
更に護持僧による加持祈祷が行われている。

翌日からは大名、諸社からの祝儀が続き、その後も次々と将軍元服に関する儀式がこなされていく。

三月十五日、征夷大将軍宣下、参議・左中将昇進。
義宣は名を義教と改めた。

「名字義教ト改名、元義宣世志のふと被読成、不快之間被改云々」  (『看聞日記』正長二年三月十五日条)

三月二十九日、権大納言に昇進。
四月十五日、御判始。
八月四日、右近衛大将に昇進。
八月十七日、八幡社参始。

そして永享二年(1430)七月二十五日。
一連の儀式の締めくくりとも言うべき「大将御拝賀」が行われた。

この大将御拝賀は将軍をはじめとして、公卿、殿上人、大名、侍他供奉人等大勢が行列して室町殿から都の通りを経て参内するという大きな行事であった。

この時の様子は『普廣院殿御元服記』、『普廣院殿大将御拝賀雑事』、『満済准后記』などに詳しく書かれている。

この日は良く晴れた日であり、将軍は申の刻(午後三時頃)、公家、大名、官人等が蹲踞する中、出発した。こうした日取りは陰陽師が決めるものであった。

満済は行列進発の前に加持が行われたことも記している。義教は束帯姿で剣を帯びていた。

行列の先頭は侍所が務める。
この時の侍所は赤松満祐である。
義教の代になり満祐が侍所に任命されたわけであるが、大将御拝賀での重役を務めるには問題があった。

「侍所。帯甲冑、于時赤松左京大夫入道性具。依爲法躰斟酌。舎弟伊豫守義雅勤其役」 (『普廣院殿御元服記』)

満祐は出家して法体であり御拝賀の儀に支障がある為、弟である赤松義雅が代役を務めることとなったのだ。

郎従三十騎を連れた義雅は、浅黄糸鎧、金刀を帯び、重藤弓を握り、大中黒の矢を背負い、黒毛の馬に乗り、従者らが兜、床几等を持ち付き添った。
兵は皆、色毛鎧を着、兜や敷皮などは各々の従者が持ちこれに随った。
僕達は紺の直垂に銀薄で文を押したものを身に付けていた。

次に小侍所。狩衣姿の畠山持永が郎従十騎を連れて続く。

満済は路地に用意された桟敷で大将御拝賀の行列を見物したと書いている。
「悉以奇麗驚目了」であったという。
行列を見物した都の人々も、凛々しく、絢爛な武者達の姿を見てため息をついたことと思う。

 更に笠持十人、居飼四人、御厩舎人二行四人、一員三人が続き、殿上前駈三十四騎、地下前駈十騎、御随身番長、番頭八人、帯刀帯二十二人と続いて将軍の御車となる。

御車には御簾役、御沓役、御車副二名、御牛飼一名、副御牛飼四人、御雨皮持仕丁二人、御随身二人、御傘持、下﨟御随身五人、雑色六人、等が付いていた。

こうした詳細は安全上の事情から厳しく秘密にするべきものであるが、故実としてこれを記し残したとあるのも面白い。

後衛には侍十騎、官人五人、扈従公卿二十三人と供奉人が続いた。

そして後衛の目玉ともいうべき一騎打。大名一騎打といわれる名誉ある役である。

この時の一騎打には畠山持国、佐々木持光、富樫持春、土岐持益、斯波義淳がなっている。狩衣姿であった。

その後に義淳の郎等十騎、総奉行四人、更に童、調度懸、雑食四人、如木二人、中間四人、笠持、床木持が続いた。

大将御拝賀とはこれ程の行列を組むものであったのだ。

御拝賀の行列は萬里小路を北、二条を西、油小路を北、中御門に至って東、室町を北、近衛を東、東洞院を北と経て左衛門而陣に至った。
辻辻は大名により警護され、事前に路の清掃も行われたとある。


『満済准后記』には御拝賀の事前準備や根回しについての記事もある。
注目すべきは「大名一騎打」についての記事が幾度か出て来ること。

一色義貫が将軍御拝賀において、大名一騎打の最前の役が欲しいと申し出ていたことが書かれている。
義貫の祖父である一色詮範が義満の拝賀の際に大名一騎打最前を務めたので、今回もこの例に習って一色を一騎打最前にして欲しいというのだ。
義貫は山名時煕、赤松満政などにも働きかけていたようだが、一騎打最前は管領がつくという決まりであるので、今回の一騎打は最前が畠山、次が一色になるとして、義貫の申し出は通らなかった。
結局、今回の大名一騎打に一色の名前は無い。義貫は不服として御拝賀に参加していない。
「次座ニ罷成條不便儀也。且可爲家恥辱云々」 (『満済准后記』永享二年七月二十日条)

畠山の次座に甘んじることは義貫には我慢ならなかったのだ。
この御拝賀の直後、義貫は義教より不興を買っている。

大名一騎打はこれ程に大名にとって大変重要な役であった。

そして義雅はこのような大イベントの先頭を飾る栄誉の機会を得たのであった。
まさに義雅にとって人生の晴れ舞台である。

赤松義雅は後に義教から所領没収、嘉吉の乱で満祐とともに最期を遂げる幸薄い武将である。しかし彼が残した千代丸の子、政則により赤松は再興されていく。


2015年9月27日 (日)

武将の落し物

昭和に法隆寺が大修理された際、心柱から一本の扇が発見された。
なんとこの扇は秀吉の物だという。秀吉が秀長を訪ねた時に法隆寺に立ち寄り、そこで柱の穴を覗き込んだ際にうっかり落としたものではないかと。
先日たまたま読んだ記事で真偽の程は定かではないが、なかなか興味を引く話ではある。
という訳で今回は落とし物。

秀吉の扇といえば亀井玆矩の話。
中国大返しの時、姫路での軍議で玆矩は秀吉から恩賞希望地を聞かれた。しかし望んでいた出雲は毛利と講和した為に絶望的である。秀吉は出雲以外の地を選べと言う。
ここでの玆矩の言葉がかっこいい。

「海内の地に於ける出雲を除く外、望む所なし。琉球国を賜はらば、伐ちて之を取らん」  (『道月餘影』)

これを聞いた秀吉は大いに壮なりと感じ入り、腰に挿していた金団扇に「六月八日 秀吉」「羽柴筑前守」「亀井琉球守殿」と著してこの扇を玆矩に与えた。
以降、玆矩は琉球守と称した。

玆矩を代表する有名な話。実際に「亀井流球守とのへ」と記された秀吉朱印状も残っている。

そんな有難い金団扇であったが、朝鮮役で李舜臣軍と海戦した際に遺失して朝鮮側に渡ってしまった。遠い戦場にまで持って行ったのか。

朝鮮側の史料『李忠武全書』にこの団扇の事が記されている。

「倭将船捜得金団扇一柄、送于臣處、而扇一面、中央書曰、六月八日秀吉著名、右邊書羽柴筑前守五字、左邊書亀井流求守殿六字、蔵于漆匣…」

先の姫路軍議の文言と一致している。国際的な落し物になってしまった。 
ふと思ったが仮に秀吉直筆だとすれば、果たして秀吉がすらすらと漢字を書けたのか、秀吉直筆の文書は平仮名が多かった気がする。しかし書かせれば済む話ではある…真相や如何。


続いて竹中重利。

この人は竹中半兵衛(重治)の従兄弟にあたり、半兵衛の領地から知行を受けていたが、後に秀吉に仕え、関ヶ原合戦では黒田如水に誘われて東軍に与した功で豊後府内二万石を賜っている。
府内城下町整備などの内政に力を注ぐ一方、馬、鑓、鉄砲、剣術などの武技を家臣に奨励するなど武芸にも強い関心を持った人物であった。
重利は黒田如水親子との交誼も深い。

ある日、如水の饗応を受けた重利はそこで何本かある刀剣から好きなものを選べと言われた。重利は短刀を選んだ。
如水は何本も刀剣があるのに本当にそれで良いのかと不思議がったが、重利がそれで良いならとこの短刀を贈った。
後日、重利が京都へ鑑定に出してみると、その刀はなんと正宗であった。重利は大いに喜んだという。  (『豊府聞書』)

しかし事故が起きた!!

重利が西国に下向した時にこの正宗をうっかり海に落としてしまったのだ。
漁夫に探らせて正宗は無事取り上げられたという、重利も胸をなでおろしたことであろう。

『享保名物帳』によるとこの短刀は長八寸七分、不知代。
表忠に「横雲正宗」裏に光徳判と赤銘があったとされる。
本阿弥光徳は天正、慶長頃の目利。

この短刀は新古今和歌集三十七首、藤原家隆の
「霞たつすゑの松原ほのぼのと波にはなるゝ横雲の空」
という歌にちなんで「横雲正宗」と名付けられたという。 (『詳註刀剣名物帳』)


海に刀剣を落とした武将には大物もいる。

その名は足利尊氏。

建武政権から追討され、戦に敗れた尊氏が九州から再起を図ろうとした時の話。

「尊氏将軍九州進発之時、見乗御舟時、篠造之御太刀自御舟被取落、沈海底、曽我入海取出之、依其忠功、如此名乗…」  (『蔭凉軒日録』長享二年三月十六日条)

意気揚々と進発しようとした矢先、尊氏はうっかり篠造の太刀を海に沈めてしまったのだ。縁起でもない出来事だ。しかし部下達の不安は尊氏以上だったと思う。
この大将大丈夫かいなと。


この太刀は尊氏に従っていた曽我左衛門尉(師助)により海底から取り出され事なきを得た。
正宗、義経の弓と瀬戸内では物がよく落ちる。

この篠造の太刀は『享保名物帳』に「二ツ銘則宗」の名で紹介されている。
長二尺六寸八分、不知代。

尊氏以来、足利将軍家に代々伝わり、後に義昭より秀吉に進ぜられて愛宕山に奉納された。
『明徳記』の中でも「篠作と云御太刀をぞ佩かせ給たりける」と山名氏清を迎え討つ足利義満が篠造之太刀を佩いていたことが書かれている。

永禄の変など波乱続きの将軍家でよく残ったものと思う、その頃には既に宝物と化していて使用されず無事だったのか。将軍家の盛衰を見てきたまさに生き証人ともいうべき太刀である。手放した義昭はさぞ無念であっただろう。


最後は伊達政宗の落とし物。

「政宗公御落馬被成、御足ヲ被打折候、御養生候而御足ハ付候ヘトモ、御痛ニテ御出馬抔可被成躰ニ無之候故…」  (『伊達成實記』)

『伊達氏治家記録』によると天正十七年(1589)二月二十六日夜に米沢城下の谷地で、政宗が乗っていた馬が急に驚いた為に飛び降りたが、その際に足を折ったという。
政宗は随分痛がったようだ。


落とし物は落とし物でもこれは自身を落とすという話。

そういえば細川忠興も初めて甲冑を付けた際に腰掛けていた具足櫃が抜け落ちて、仰向けに転んでしまったという逸話があったが、やはり彼等はエピソードまで只者ではない

2015年4月30日 (木)

義久は尼子

永禄九年(1566)月山富田城が陥落した。
毛利がすすめた山陰攻略により石見が平定され、永禄五年には出雲攻略が本格化し、
出雲国内の尼子勢力は次々と毛利に降っていった。
各地の諸城も落ち、永禄八年頃には孤立した月山富田城を毛利軍が包囲するまでに尼子氏は追い詰められている。
当主尼子義久の籠る富田城は兵糧も断たれ、城下は麦なぎをされ、城内からも逃亡する者が跡を絶たない状況となっていた。
そうした中、永禄九年十一月二十一日に毛利元就と息子等、毛利氏家臣等は血判状を尼子氏に渡し、毛利と尼子の和睦が成立した。
尼子義久、倫久、秀久兄弟は毛利に身を預けることとなった。
これにより出雲の戦国大名尼子氏は滅亡した。

降伏した尼子三兄弟は二十八日に下城し、吉川衆、小早川衆に伴われて杵築に送られた。
義久等には山中鹿介、立原源太兵衛、秋上庵介、横道兄弟他多数の者が供として同行していたが、元就の命により、芸州には立原備前守、本田豊前守、大西十兵衛等、限られた者のみが供を許され、それ以外の者達は義久に従うことは認められなかった。鹿介等は杵築で追放された。

安芸に入った義久等は内藤元泰監視の下、長田の円命寺に幽閉されることとなる。この宿所については七月頃から元就と元泰の間で検討されており、この段階で既に尼子人質の条件があったとされる。

義久を人質にするにあたっての毛利側の姿勢がわかる史料がある。 飯田尊継宛の小早川隆景書状。

「よし久江整之儀、涯分ゝ不可有油断候、元春我等請
取仕分候て調之儀に候間、不足候て外聞如何に候、第
一如斯の大将虜候事は、前代未聞之儀に候、然處に当
座の操悪候へ者、他国まての覚不可然候、為分別申候
かしく                            
   十二月四日       たか景御判          」
        
小早川隆景書状写(閥閲録57・飯田平右衛門)

名門尼子家の当主が毛利に降った。
毛利にとって今度の人質はかつてない大物である。
この件は他国まで伝わっており、毛利の威信にかけても不手際による醜聞だけは避ける必要があった。
翌年春には早速、足利義昭から雲州落居について書かれた御内書が届けられている。
不手際には無礼、脱走、謀叛なども含まれると考える。

今回の和睦に毛利方が神経を注いだ結果、出雲国内での動揺も抑えられ、順調に支配がすすめられていることについて、聖護院道増は「希代之御調儀」と称賛している。(「毛利氏四代実録考証論断」)

長田に着いた義久等はそのまま円命寺の宿所に送られた。
円命寺に幽閉された義久の生活は「内藤家之次第覚書」などから垣間見ることが出来る。
義久等が幽閉された宿所は円命寺内に新たに普請されたもので、宿所は塀、格子で囲われ、所々には櫓門、矢蔵を置き、さらに矢来を巡らし番衆を置くという厳重さであった。
矢蔵番衆が二十尺毎(約6m)に配置され、昼廻り、夜廻りと交替で終日監視し、門にも昼夜に番衆が置かれていた。
これは脱走を防ぐだけでなく、襲撃に備えたものでもあったと思われる。

富田から来た供衆二十人の内、五六人だけが宿所に入ることが認められ、その他の者はそれぞれに宿所に入れられ、簡単には義久の宿所に入ることは出来なかった。
毎日、朝、昼、晩と夜四ツ過に兄弟三人と面会をして異常がないか確認していたようだが、時々義久側からも障子越に言葉がかけられたという。
供衆等が義久等に対して世話をしようにも、番衆等を通して間接的にしか出来なかったが、時々は元泰の付き添いの上で面会が出来たようである。
義久にとって大変不便な生活であったが、元泰の側から見てもこれだけの監視を長年に渡って継続しなければならない事は大変な負担でもあったようで、宿替えを願い出たという話もある。

こうした不便な生活が七年以上も経ち、ようやく義久は輝元、元春、隆景に伺候することを許された。しかし外出も当日のみで、吉田に赴き面会を済ませた義久はその日の内に円命寺の宿所に戻っている。
この頃はまだ再興軍が因幡で活動していた頃。面会では鹿介等の話題もあったのだろうか。
また正月と秋頃の年二回は外出が許されたという。

幽閉期のエピソードもいくつかある。

尼子再興軍が蜂起した際には、尼子方が吉田に討ち入り義久等を奪い返しに来るとの風聞が流れて長田は緊張に包まれた。元泰は駆け回って輝元、元就等に対応を相談し、夜通し駆けて長田に戻り、義久に面会している。

義久が幽閉されている頃、長田の地に何処の国の者かも知れぬ者が村中を尋ね歩いているのを捕まえたが、その後も一人、又一人と 入って来たので捕えて討ち果たした。
その後も方々から不審な者がやってくるので、長田の境界に「知レさる者切捨」と書かれた高札が立てられたという。

義久幽閉時代の話では家宝刀「荒身国行」の話が有名。
大事に隠しもっていた尼子重代の名物であったが、輝元の知るところとなり渡す羽目になったという話。
「内藤家之次第覚書」にも国行の話がある。
国行を譲る話が出た時、義久は「国行は月山富田城にあるべき刀である」と決して渡そうとしなかったという。
国行は大切に護ってきた家宝である。
この刀とともに義久の心はまだ出雲に、月山富田城にあったのだ。
我は尼子であると。

しかし、結局は国行は輝元の手に渡ることとなった。
義久は国行を渡す際に涙を流し、一方受け取った輝元は殊の外上機嫌であったらしい。
輝元は書状の中でも国行のことを「数代御秘蔵」「御重代之腰物」「天下無類之名物」と言っている。(閥閲録29・佐々木舎人)

天正十七年、二十三年に及んだ幽閉が許された後、義久は毛利氏の客分となった。後に義久は剃髪して友林と名乗るようになる。
慶長八年には尼子晴久、晴久正室(義久母)、月山妙春大姉(義久妻か)、妙玉禅定尼等の供養を行っている。
慶長十五年八月二十八日義久死去。享年七十一。
義久は人生の大半を毛利で過ごしたことになる。

現在に至るまで義久の評価は高いとはいえないが、近世の書物に義久を評価するものがあるのは嬉しい。
『明智軍記』では古今の名将の例の一人に「尼子伊予守義久」が挙げられている。
『陰徳太平記』では「殊に若大将の義久、老功の元就と鉾楯に及びける事、敵ながらも勇智如形兼備えたり、誠に経久の曾孫なり、城を明渡されたりと雖も、却て尼子家の将兵共に、諸人甚感称せり」と元就に対抗した将として評価を受けている。

 国行の話が本当であれば、義久は誰よりも長く、
月山富田城を尼子の手に戻したいと願い続けた人であったかも知れない。

2015年2月16日 (月)

文化系政則 後

続き

狩り

政則は武家の嗜みを疎かにしていない。
狩猟、鷹狩、犬追物に関連する史料も幾つか見られる。
「赤松此間数日醍醐水本坊ニ在之、鷹仕之云々、近日宇治橋寺ニ在之鷹用云々」 『大乗院寺社雑事記』
延徳二年(1490)四月二十九日に播磨で政則は狩猟をしている。その際家臣の魚住又四朗の放った矢が 誤って難波新四朗に当たって死なせてしまったという。『蔭凉軒日禄』

そういえば政則が亡くなる前に鷹狩りをしていたという話もある。
「政則御煩ひあり。御慰に御鷹野に御出。坂田のくど寺と御宿にて、彼寺に御逗留候所に、思ひの外御煩取詰候へて寺にて御他界」『赤松記』

次は犬追物。
犬追物といえば宿敵の山名氏も家伝書を残す程の入れ込みようであり、時熈、宗全、教豊、政豊といった 山名歴代も犬追物を好み、山名一党の者も人々の犬を掠奪し、終日犬追物を射た程である。
政則も何度も犬追物を張行している。
明応二年(1489)九月八日に行われた犬追物は小寺、浦上等赤松家の者達が主な参加者となって行われているが、この日は政則も加わっている。検見は上月則武。この家、楽しそうだ。

犬追物は犬馬場と呼ばれる広場で行われる。
犬追物を描いた絵は幾つもあるが、絵の中の犬馬場にあるように犬が逃げまわり、馬が駆ける、矢が飛ぶ、見物の為の桟敷に柵と、犬馬場にはある程度広い場所が必要であった。
広大な敷地を持つ細川邸は馬場の施設もあったようだが、赤松邸には流石にそこまでのものは無い。政則は犬追物を張行するにあたり、安国寺、妙覚寺、本能寺といった寺の敷地を使用している。
犬追物をする寺を転々としているところをみると、寺側も馬場として使用するにあたり 難色を示したのであろう、敷地を借りるのも容易ではなかったと思われる。それに犬射蟇目矢という特殊な矢を使用するとはいえどうしても殺生を伴う。騎射は寺に相応しくない催事であった。

更に政則は播磨でも犬追物を行っていたようで延徳二年に
「当年赤松殿赤松ト言所ニ、山ヲ引ナラシテ犬馬場ニ用意云々」 『蔭凉軒日禄』

平地を利用するのではなく、わざわざ山を造成してまで馬場を用意させている。
政則の犬追物熱も負けてはいない。

狩りで汗を流した後の温泉は格別。
政則は温泉好きであった。
好きな温泉は美作国湯郷温泉。
現在も温泉地として有名。この温泉に政則は度々湯治の為に訪れている。
『蔭凉軒日禄』によると
「去月廿九日赤松公爲湯治作州下國」 長享二年十月四日条
「赤松公作州湯郷湯治了、去十六日被回駕於播之赤松舊宅云々」 延徳二年六月二十三日条

政則は美作、湯郷温泉に滞在している間は垪和氏の屋敷や長興寺などを宿所としている。「長興寺以可替赤松公之宿云々」
この寺は現在もあり湯郷の観光名所の一つ、御越しの際は是非お立ち寄りを。
政則は他に山城の温泉にも赴いている。

故実書絵画

侍所所司を務めた程の政則は武家故実についても関心を持っていた。
政則は飛鳥井雅康から『蹴鞠之書』を贈られている。
当然蹴鞠を嗜んだのだろう。政則の蹴鞠姿を想像する。
また小槻晴富には『矢開記』を所望し、その写しを手に入れたりもしている。

政則は絵も欲しがっていた。
肖像画。
誰の?

なんと足利義尚。

ことの発端は義尚の死去から始まる。
長享三年(1489)三月二十六日足利義尚が死去。翌月の九日に葬儀が行われ、その際狩野正信が描いた義尚の御影が使用されている。足利尊氏の御影も尊氏周忌に使用された記録がある。
その数日後、義尚の母である日野富子が尊氏像を観たいと所望した。
尊氏像は束帯姿である倭歌御絵と甲冑御絵があったが、その後狩野正信が義尚の出陣絵を描くこととなったことから、富子は息子の肖像を尊氏の甲冑御絵にならって描かせようとしたと思われる。母の愛か。
ちなみに義尚も尊氏像に関心があったようで等持寺にあった尊氏像を取り寄せている。
五月に入り義尚出陣之像の下絵が出来たので亀泉集證に見せたところ、同席していた政則が義尚像作成を依頼したのであった。

「狩野大炊助持常徳院殿御出陣之像下絵来」
「約政則公之所請画像之事」
 
 『蔭凉軒日禄』長享三年五月四日条

その後七月になり政則の所望した義尚像が完成した。

「赤松所誂常徳院殿画像、自狩野助方来」
『蔭凉軒日禄』長享三年七月四日条

政則が手に入れた義尚像はどう使用されたのか、その後どうなったのかは不明である。

赤松政則の文化的な面を見て見たが、赤松家が大名として残らなかったのは本当に残念とした言いようがない。これだけの家の歴史や文化が残され伝えられていれば、どれだけ今の歴史に貢献したことか。

文化系政則 前

赤松一族の歴史を語る中のハイライトの一つが赤松政則期。
嘉吉の滅亡から赤松再興、応仁、文明の乱、山名政豊との戦いなど波乱に満ちた彼の生涯は 大変魅力的で面白い。軍旅に身を置く期間が長かった政則と戦は切り離せない。
則祐、満祐、義村といった歴代赤松当主については和歌など文化的な面が取り上げられる機会も目立つ。はたして政則にそうした文化的な側面がどれ程あったのか。 今回の主役は赤松政則。野蛮な話は抜きにして、文化的な政則の活動をみていきたい。

刀匠として

政則が自ら作刀したことは有名。
政則は備前長船の刀工勝光、宗光兄弟の指導を受けて作刀したという。
現在14口作刀したことが知られ、9口が現存している。

延徳元年(1489)に作られた刀銘

銘 為神山駿河入道周賢   
   
兵部少輔源朝臣政則作
     延徳元年十一月六日

銘 為小倉小四朗源則純
   兵部少輔源朝臣政則作
     
延徳元年十一月十五日

銘 為廣峯九朗次郎源純長
   兵部少輔源朝臣政則作
     延徳元年十二月十一日

これらの刀剣は政則が美作に滞在していた時に製作された。
この刀を与えられた廣峰純長、小倉則純は政則に付き従った被官達。政則は自作の刀剣を家臣達に恩賞として与えていた。
延徳元年、この年政則は三十五歳。播磨に侵攻した山名軍を破り播磨、備前、美作を奪還した頃のもの。軍も一息つき、美作に滞在していた政則はこうした趣味ともいえる時間を持てるようになっていた。

銘の日付の間隔は九日~一ヶ月程度、これを製作期間とみるかどうか。江戸時代の刀匠が一ヵ月に作刀した本数は四~六本程度といわれるので、製作期間とするのも妥当なところではある。しかし同年である長享三年(1489)に製作された二振りの刀の銘には八月十六日、十七日と連続している。銘を入れるのは研ぎなどの仕上げの後であるので、政則が作刀したものを仕上げに出した後に、銘を入れて完成させたと思われる。
ともかくこの半年程の間に政則は五本もの刀を製作している。波にのっていたのか集中力があるのか。これ以前、文明十四年(1482)にも半年程の間に五本作刀している。

芸能

赤松の芸能といえば「赤松囃子」
播磨白旗城に落ち延びていた六歳の足利義満を赤松家中が松囃子でお慰みしたことから赤松家の恒例行事となったとされる。
松囃子とは正月に行われた囃子物を主体とする祝福芸能をいう。鼓や笛を伴奏とする囃子物の芸能で、これに七福神などの仮装行列、作り物を登場させて演出した。
大名が沙汰して行う松囃子を「大名松拍」と呼ぶ。『看聞日記』

赤松の松囃子、赤松囃子は毎年正月十三日に行われるのが恒例であった。
正長二年、永享元年、永享二年、四年といった正月十三日に赤松囃子が行われた記録がある。
永享二年(1430)の赤松囃子は特に派手な催しであったようで
「風流超過去年、驚目了」
「其後福禄寿如去年、惣テ物数三十一色云々」 『満済准后日記』
芸能、演出などのことを「風流」と称した。 この年は福禄寿など三十一種類もの出し物が登場したという。
こうした大名による松囃子は赤松家だけでなく、一色、山名、京極といった諸大名も行っている。松囃子が開催される際は囃子物の他に能や狂言も併せて行われており、それがやがて武家による 猿楽を盛んにさせていく。

政則も猿楽を好んだ武将の一人。
『蔭凉軒日禄』『大乗院寺社雑事記』『実隆公記』などによると政則は 屋形や陣所で盛んに猿楽を行っており赤松家中の者達が主に舞を舞ったという。浦上則宗も度々歌舞を披露している。

明応二年(1493)六月二十三日赤松邸での酒宴の席では 赤松左京大夫、別所大蔵少輔、浦上美作守、上原対馬守、 小寺勘解由、後藤藤左衛門尉が舞を舞っている。
家臣達と共に政則自身も演じていたのだ。

政則は
「雖云幼少、尤好音曲」 『蔭凉軒日禄』
とこうした手猿楽や囃子を大変好んだようだ。 政則は宇治猿楽の鼓打ち幸弥七という者を自身に奉公させていたという。

思えば猿楽で将軍殺しをする程の一族である。

文明十三年(1481)正月十三日の将軍御成が延期となり、あらためて二十日に義政夫妻の赤松邸御成があり、大量の礼物が贈られている。十三日は赤松囃子の日であるので、おそらくこの時も義政、富子は政則の松囃子や猿楽でもてなしを受けたものと思われる。

政則は将軍を松囃子、猿楽でもてなし、家臣達もまた松囃子、猿楽で政則をもてなした。

「作州小原陣松拍、今月十七日有之云々」 『蔭凉軒日禄』延徳元年二月十五日条
「正月十六日、自浦作陣所、企松拍、赴大将之陣所、其返報二月十七日有之  書立上之、凡拍物数七十色、能七番、狂言七番云々」 『蔭凉軒日禄』延徳元年三月三日条

美作小原の陣でのこと。
正月十六日に浦上則宗が自身の陣で松囃子を開催し、政則も則宗の陣所を訪れてもてなされている。その返礼として今度は政則の陣で囃子物七十種、能七番、狂言七番という派手な松囃子を開いたのだ。

延徳三年(1491)九月二十日、近江三井の将軍義材の陣で猿楽が行われた。
御座敷御相伴衆は畠山尾張守、一色修理太夫、細川兵部少輔、赤松兵部少輔。
政則の伴衆は浦上美作守、上原対馬、小寺勘解由、明石與四朗の四名。
この日はまず将軍お気に入りの観世太夫が演じた。この時政則は観世太夫の歌舞に感じ入って五千疋を褒美として与えている。
次に御相伴衆が皆巡に舞いを舞っていった。畠山、一色、細川等も舞ったという。
赤松による舞いは皆が褒めた程であった。『蔭凉軒日禄』

ところで斯波、山名、京極の三家はこの日欠席している。

「不例不参也」 山名…

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